善き人々に出逢う旅 令和7年5月


4月の想い=死ぬことは生きること

 人生の中で、「死」という語が、重く自分にのしかかってくる時期は必ずやって来る。人は、自分の意思によって生まれてくるのではない。どうして生まれて来たか尋ね求めても、その本源を知ることはできない。また、死後の世界についても、誰も知り得るところでは無いのである。
 西洋哲学の考え方では、「死」は、点として捉えられることが多い。
「生」と「死」を結ぶ直線があり、一点を境にして生前と死後に分断される。その分断される点が「死」と理解されている。点は位置だけがあって大きさはないとされているので、その意味では死は存在しない。
その位置を境にして、生前と死後になるので、「死そのものはない」と言えるのである。

 仏教ではしかし、「生」と「死」を切り離してみることはしない。「生の中に死があり、死の中に生がある」と、考えるのである。
たとえば、氷が融けると水になる。そのように「生が融けて死になる」と考える。仏教思想家のひろさちや氏が、生前の講演で話していた。

『氷が融けて水になると言っても、氷が一瞬にして水になるわけではありません。最初は〈氷100%・水0%〉であったのが、少しずつ融けて行くのです。〈氷90%・水10%〉となり、〈氷60%・水40%〉→〈氷20%・水80%〉→〈氷10%・水90%〉となり、最後に〈氷0%・水100%〉となります。氷と水の関係の如く、誕生の瞬間は〈生100%・死0%〉ですが、それが少しずつ「死」のパーセンテージが増えていきます。そして最後に、〈生0%・死100%〉となるのです。ただし、事故死など、ある瞬間に突然、死を迎える場合もありますね。また、年齢によっての変化の差も、根本は関係ないです。』
『仏教では、死を一種の病原菌のように見ているのです。誕生の最初から死というウイルスを内蔵し、それが少しずつ増えていくのです。』

 この時の話を、私は次の様に受け止めた。
一、「死」と「老」は同じところがある。私たちは、少しずつ「死」に向っている。「老いる」ということは、そういうこと。
二、仏教においては「生きること」は「死ぬ」ことである。「生きる」ことは、「病む」ことであり「老いる」ことであり、同事に「死ぬ」ことである。
三、仏教は、「生」と「死」を、切り離して見ない。「生の中に死があり、死の中に生がある」と、見るのである。


 幼い我が子を白血病で亡くされたSさんは、つぎの様にお話になっている。

『死ぬことが不幸なのではなく生きてることが幸せ』
「私達家族は毎日ただただ幸せに暮らしてます。息子が亡くなる前、入院するよりも前よりも今の方が幸せだと感じます。これは息子との闘病生活を経験したことにより、いつもの生活のありがたさを知ったからだと思います。
『幸せは得るものではなく気づくもの』
 「こうなったら幸せ」「これが手に入ったら幸せ」というものは幸せの一部でしかなく、すでに今持っているもの、あるものの中に
沢山の幸せがあります。そのことに気付くことが真の幸せだと思います。
『人は必ず死にます』
「その幸せもいずれ必ず失います。死が待っているからです。人間みな死ぬのに最後は不幸というのは悲しいです。幸せに亡くなっていく人はいないということでしょうか?
私はそうは思いません。最期を納得して迎えられるように生きれば、幸せに亡くなっていくことも可能だと思います。
 死は全員に起こるもの。特別なことではなく普通にあることです。生きている今が幸せなのです。今がとってもとっても幸せなことなのです。」
『今の幸せを味わい尽くそう』

 4月4日、3人目の孫(女の子)が、誕生しました。今の幸せを日々かみしめて、私も生きたいと思う。感謝合掌

 


 


絵本を中心とした沢山の本を積んで~バスの中で、ゆっくりと読むことも出来ました。
法光寺駐車場にやってきた
ブックスタンド=移動図書販売車
拙著も、ちゃっかり差し上げました。