善き人々に出逢う旅 令和7年9月

八月六日そして八月九日に

 1945年8月6日午前8時15分。
アメリカ軍の爆撃機が広島市の上空600メートルで原爆を炸裂させた。そしてその3日後の9日。広島に続き長崎市にも、原爆を投下した。多くの市民が犠牲となり、年末までに広島でおよそ14万人、長崎でおよそ7万人が亡くなった。戦争が終結してからも、多くの人々が、放射線によって苦しめられた。
 戦後八十年にあたる今年も、両市では、平和記念式典が、厳粛に行われている。
私は、原爆の被害の真実をどれだけ知っているだろうか?どれだけ学んで来たろうか?
戦後生まれの自分の知識の浅薄さと、知ろうとする意識の低かったことを、恥じる。

 

 被爆者の平均年齢は86歳を越え、被爆者の減少と、体験の語り手が減っている。
 そんなおり有難いご縁で、広島市在住の西村陽子様から、『ヒロシマの劫火の中で』(田部礼子著)という貴重な冊子を送って頂いた。
昭和60年、著者の礼子様の長女である田部信子様が、母上の遺稿をまとめ出版された。その後、平成2年に改訂版、平成17年に第三版が出されていた。今回頂戴したのは礼子様の長男である田部百之助様の長女の西村陽子様が、被爆八十年周年の機に復刻されたものである。お祖母様がご生前書きためていた原稿に、他の方々の体験記などが加えられ、当時の様々な様子を知ることが出来る内容。
(許可を頂戴したので、一部紹介をします)

〈組長の奥さんが玄関を出られ、私が台所へ引きかえした時だった。ガラスの天窓から一瞬目を抜くような非常にきつい閃光が飛び込んで来た。ハッとして思わず土間へ飛び降り、その場へしゃがみ込むと同時に、ザザザザー、ダダダダーとなんとも言えぬ物凄い響きがして壁が崩れ落ち、頭の上に木切れや壁土が一気に落ちて来た。私は目をつむったまま手を合せ、「神様、お助け下さいませ」と一生懸命に祈った。〉
〈電車通りには、火にまかれて焼死したらしい死体があちらこちらに転がっていて、大手町側の防空壕の入口のそばには、焼け焦げた五、六人の男女の死体がかたまって、さつま芋でも転がしたように並んでいた。生き残っている人も、自分では動けない人達で、目がつぶれ脚の肉が高圧線で焼け切れて骨の見えている中年の女の人が、近づく足音をきくたびに「ちょっと、誰か、私を救護所へ連れて行って頂戴」と頼んでいる。半死半生で「水を下さい、水を・・・」と言っている人。陽は容赦なくこれらの苦しんでいる人達の上に照りつけている。この世の地獄というほかはない。〉

 生死の境の中で、必死の行動をされているのだが、その時の詳細な記憶が、事細かく描写されていて驚く。
避難していた建物で、顔にひどい傷を受けた父親が赤ちゃんを抱いて憔悴している姿を見る。建物近くに火の手が迫ってくると、拾って来た暗幕を繋ぎ合わせて赤ちゃんを自分の背中にくくりつけて、父親を励まし何とか火の手を逃れる場面は特に臨場感に溢れている。その咄嗟の決断力に、生きようとする力と、他を助けんとする勇気に感嘆する。
 一瞬にして生と死を分ける境目とは、何なのか?戦火の中で生き延びた方ならではの視点で書かれた文章は、大きな説得力を持って、核爆発の恐ろしさを伝えてくれている。
 西村様は「被爆者の高齢化により直接証言を聞く機会が減っている現在、原爆の手記の重要性がますます高まっていると思います。」と書かれている。(「復刻版にあたって」)

 

 8月9日、歌手で俳優である福山雅治氏が、NHKの音楽番組『MUSIC GIFT』に生出演した。長崎市内の山王神社の「被爆クスノキ」を題材にした楽曲「クスノキ500年の風に吹かれて」を抽選で選ばれた5000人と共に合唱した。このクスノキは爆心地から800メートルにあり、熱線で焼かれて枯れ死寸前だったが、数か月後に奇跡的に新芽が芽吹いた。復興と再生のシンボルとして人々を勇気づけてきたが、それを楽曲にした。
「我が魂は この土に根差し 決して朽ちずに  決して倒れずに~」と歌詞にある。
父が被爆者で、被爆2世である福山氏は、語っている。
「長崎の人間として、命の大切さや平和を伝えていかなきゃいけない」と。
 唯一の被爆国の国民である私たちは、「二度と戦争を起こしてはならない。二度と核を使わせてはならない」と、一人一人が考え、伝えて行かなければならない責務があると、私は思うのである。

続く

 

2015年8月6日 広島平和公園「平和記念式典」の際に、訪れました。

平和を祈るカンボジアの子供たち~佐野撮影