思うにまかせない人生を生きる
令和八年九月二十三日は、お彼岸の中日である。冒頭から自己の事で恐縮だが、この日は私の誕生日でもある。師父が本堂で彼岸経を読誦している最中に、私は庫裡で産まれたという。母のお腹の中で大きくなり過ぎたので、難産だった。今なら確実に帝王切開だろうが、幸い母子共に健常であった。何時間もそばにいて見守ってくれた檀家のおばあさんたち、とりあげてくれた産婆さんも、「赤子の大きな声を聞いた時は本当にほっとした」と、話をしてくれた。
さて、仏教は「生老病死(しょうろうびょうし)」の四つを「苦」ととらえて「四苦」を説く。「苦」とは単なる「苦しみ」ではなく、「(自己の)おもいどおりにはならないこと」を意味する。「老いる」ことも「病気になる」ことも「死を迎える」ことも、自分のおもいどおりにはならない。そして、「生まれる」ことも勿論そうであり、自分の力でおもうように産まれてくる訳ではない。
超巨大児を産んだ母は、次の子は産めないと告げられた。必然的に私は、寺の跡取り息子として育てられた。お檀家さんたちが可愛がってくれたが、思春期になると、寺や生まれ故郷に縛られる事に、強く反発を覚えた。
高校受験に引率してくれた中学の社会の先生は、「ドストエフスキーを読め」というのが口癖で、目をかけて下さったが、あろうことか、入学試験の前夜スナックに私を連れ出した。影響はなかったのか、志望校には合格出来、離れた町で下宿生活となった。いつの間にか地方から集まった学生が、タバコを吸っていく溜まり場になった。下宿のおじさんは、土建屋の社長で豪快な人だった。卒業式の夜、同室の友と二人を料亭に連れて行ってくれ「一杯だけだぞ」と、ビールを勧めた。それからタバコを差し出して「トイレで吸っていたのは分っていた」と、笑った。今では考えられない時代だ。通っていた公立高校は自由な校風で、大学紛争の影響を受けた生徒たちが制服、制帽の廃止運動を起こした。学校側が妥協し、制帽は廃止になり、私は長髪にパーマをかけ、下駄を履くという珍妙な姿で通学していた。大した勉強はしなかったが、トイレでタバコを吸いながら英単語や歴史年表を覚えたのが良かったのか、東京の私立大学の国文科に入学することが適った。ところがその大学は、四年間の内二年間はロックアウトで、休みとなりレポート試験だった。喫茶店やスナックでアルバイトをし、旅行三昧。
閑な時は麻雀やパチンコ等に明け暮れ、暗いジャズ喫茶で小説を読み漁るという青臭い文学青年を気取っていた。漠然と新聞記者やライターに憧れていたが、そのために努力をすることはなく、両親には「勉強をしているよ」と偽って、好き勝手な生活。後ろめたさを感じることもなく、故郷に帰る気持ち、まして、や寺を継ぐことは微塵も考えていなかった。
恥ずかしい青春時代のことを連ねたが、人生はふとした出来事や、人との出逢いによって大きく変わる。幸い私は、ある方との出逢いに導かれ、仏道修行の道に進むことが出来目を覚ました。しかし欲望のおもむくままに生きていたら、きっと破滅的な人生を送ったのではないだろうかと今も思う。
人生を思いどおりに生きられる人は、一人もいない。その「苦」を感じながらも、「病気になりたくない」「年を取りたくない」と私たちは、あがいてしまう。その中で、人生最期の「苦」である「死苦」を迎えた時、その人の価値が顕われるのではないだろうか。
少し前、三歳年上の先輩を見舞った。
五年前に、腸の外側に腫瘍が発見された。希少な癌ということで、大学病院で長い間、様々な抗がん剤を続けていた。その治験もついに効果のある薬が発見されず、近隣の病院で緩和ケアを受ける状態に陥った。逡巡しながらお見舞いに伺ったが、手を握ると思いの他、力強く握り返してくれた。手を放すことが出来ず、しばらく握っていると、スヤスヤと寝息をたてた。精一杯いのちの炎を燃やし尽くした彼の寝顔は、驚くほど穏やかだった。
数日後の彼のお通夜には、大勢の方々が参列してくれた。病と闘いながら、家族だけでなく沢山の人々のことを常に考えて、最期まで生き抜いた生涯だった。遺言に従い、通夜では、曹洞宗読誦経典である『修証義』を、副住職と読んだ。冒頭はこうである。
『生(しょう)を明(あき)らめ、死を明らむるは仏家一大事の因縁なり』
「あきらめる」とは「諦める」ことではなく「明らかにする」という意味である。「生も死も一繋がりのもの」と受け止めた姿は、正に「生死の苦」を越えた最後であった。 合掌
続く
某寺の通夜説教をつとめる
Alに作成してもらいました。
少しイメージ違いますが~
小学校6年の時書いた自画像。~AIに手直ししてもらいました。