明治10年以前の、法光寺に関する史実については、詳細の資料がないので明らかではないが、当地方の巡教は、道仙和尚によって行われたと思われる。この地方の曹洞宗は、えりも岬に説教所のようなものが文久時代(1861頃)からすでにあったといわれ、古文書でもあらわされている事もあり、当時70歳といわれる道仙和尚がその教えをえりも町一帯にひろめていたと思われる。法光寺裏の丘の歴代住職の墓地に、道仙和尚の墓碑が祀られていることも、これらを物語っている。
山形県大島田村泉涌寺住職長浜大徳徒弟、長浜恵和尚は、明治12年札幌曹洞宗中教院派出として幌泉村において曹洞宗の布教を始めた。当村帰依者によって当初仮説説教所を設立され、恵流和尚の寝食を忘れた布教によって、信徒は次第に増加しその尽力により、明治15年寺院建立を果した。(境内地511坪、本堂6間半×5間半) 同年さらに、寺号公称を出願したところ、明治17年5月、寺号公称に認可を得るに至った。
寺号公称の認可により、檀信徒の信仰はますますあつくなり、特に漁業経営者の信心を増すことになり、その篤志により境内・境外の施設も充実するに至った。
明治21年 境内仏堂 「金毘羅堂」 本尊 竜神
明治21年 法光寺前の官の山に三十三体の観音像を祀る
明治23年 「龍王堂」 本尊 竜天護法善神
明治35年 境内地の寄進を得、本堂を改築。
大正11年 裏山の寄進を受け、龍王堂を改築。
明治35年、恵流和尚老令になるに及んで、函館市高龍寺から国下海雲養子、国下俊英和尚を住職として迎える。その後、恵流和尚は体調を崩し、長い療養のすえ、明治38年、世寿55歳にして示寂した。
- 寺約(月まわり)
- 布教の熱心・漁家の繁栄等により、ますます信徒の数が激増し、遠くの檀家まで馬で出向いたという。時には日に葬儀が度重なることもしばしばあり、他寺住職に回向を依頼したり、明治後期からは雲水3~4人を置き、厩舎も設置して二頭の馬を飼い、寺男を置きこれらの管理にあたらせていた。
- 年中行事前夜
- 年中行事の際には、遠近の参詣者が多く、前夜から寺に泊まり込んでお参りする者も多く、寺も満員のとり込みようで、このため女中数名を雇って対応したという。
- 寒修行
- 檀信徒が激増し、町内全域に信者が分布するに及んで、寒修行も数人数組に分かれて各方面巡教するようになり、遠方には泊り込みで寺に帰りつくまで3日も4日もかかったといわれ、寺具仏具の必要なものは、寒修行によって調達したということである。
- 花まわり
- 毎年花まわりには、檀家の子弟の全員をもって参加し、梅・松などの鉢植造花を全員が捧げ持ち、稚児行列が街頭を歩き、大変なにぎわいだったという、後に仏教会として行うことなったが、太平洋戦争を機に行われなくなった。
歴代住職
| 前 住 | 道仙和尚 | 文久時代から明治10年頃までえりも岬に於いて法務をとる。 |
| 第一世 | 長浜恵流 | 明治12年、幌泉村にて曹洞宗の布教を始め、明治15年法光寺建立。明治17年寺号公称の認可を受ける。境内外の施設も充実させる。明治38年、55歳で示寂。 |
| 第二世 | 国下俊英 | 明治35年函館市高龍寺より住職として迎えられる。龍王堂建立の祖となり漁家の繁栄・海上安全・魚族の供養をするに及んでますます信徒が激増し人々の信頼を受けた。昭和4年、78歳で示寂。 |
| 第三世 | 佐野寿光 | 静岡県小笠郡大東町出身。愛知県小牧市正眼寺より大正8年迎えられる。大正12年住職。山号興国山を佛国山に改称。昭和元年庫裡改築、昭和5年山門建立。布教師の資格を有していたために、道内各所寺院を巡り布教に務めた。斬新で知られ活動写真や浪曲師を呼び、布教活動に取り入れ檀信徒に深く慕われた。昭和15年、出火で全山灰燼に帰すが、昭和16年12月8日落慶。奇しくもその日が太平洋戦争勃発の日であり、その後の戦時体制下の困難を乗り越え、法光寺の危機を救い、中興の祖として信望を一心にあつめた。昭和29年示寂。 |
| 第四世 | 佐野俊宏 | 昭和29年住職。同年「読経会」を発足する。昭和39年位牌堂落慶。堂41年無常堂・車庫を落成。同42年「護持会」を結成。同45年庫裡落成。同54年法光寺開教百年記念祭大法要。記念事業として駐車場の整備、本堂・庫裡の改築等を行った。 |
| 第五世 | 佐野俊也 | 平成4年3月住職。 |
年中行事
| 2月3日 | 節分会法要 |
| 4月 | 涅槃会法要 |
| 5月 | 降誕会法要 |
| 5月 | 観音山開き |
| 6月 | 地蔵祭法要 |
| 6月27~28日 | 龍神祭 |
| 8月21日 | 盆施食会 |
| 10月 | 観音法要 |
| 10月27~28日 | 龍神祭 |
| 11月 5日 | 成道会法要 |