いのちを凝視(みつ)める

 吉田兼好の随筆「徒然草」に次の様な一段があります。(第九十三段)
ある人が大勢の前でこんな話をした。
「牛を売る者がいて買い手と話がつき、明日代金を支払って引き取って貰う約束をした。ところがその夜のうちに牛が死んでしまった。牛を買おうとした者は得をしたが、売ろうとした者は損をした。」
これを聞いて、側にいた人が「牛の持ち主は確かに損をしたが、又大きな利益もある。生命あるものが死の迫っている事を知らないでいるのは、牛もまた人間も同じである。思いがけず牛は死んだが、持ち主は存命だ。人の一日の生命は万金よりも重く、牛の代金などは羽毛より軽い。万金を得て、僅かな金を失った人が、損をしたとは言えない。」と説く。しかしその場の人々は皆嘲り顔で「その道理は何もその牛の持ち主だけに限った事ではない。」と冷やかだ。その人はかまわず「人間が本当に死を憎むなら生をこそ愛すべきだ。今ここに生きている喜びを忘れて、わざわざ苦労して外の楽しみを求める。(中略)生命ある間、生を楽しまないでいて、いざ死に臨んで急に死を恐れるというのではこれ程矛盾した道理はない。人が皆生を楽しまないのは、死を恐れないからである。死が迫っていることを忘れているのだ。」と正しい理りを説くが人々は理解しない。「いよいよ嘲る。」としてこの段は終わっています。目先の欲に囚われて、大切な生命の価値を顧みようとしない庶民に対する、兼好の批判精神が感じられる文章です。
 では、私達自身の生き方はどうでしょうか。日々の生活の中で生命の重みをどの程度感じているでしょうか。
 私自身、この人々を笑う事ができるでしょうか。冒頭の牛のように、今日の生命が明日保証されるとは限らない身でありますのに-
 アジアアイウェーとは名ばかりで、穴ぼこだらけの道を、猛スピードで走る乗用車・トラック・オートバイ。そして自転車の群れ。それをかいくぐって急いで道路を横断する人々に、突然飛び出す牛や豚や鶏たち。砂埃の舞う道を、私達が乗った四輪駆動車も疾走していました。
 今年の1月、SVA=曹洞宗国際ボランティア会の主催する「僧侶のためのスタディツアー」に参加し、カンボジアの視察に訪れた時の事です。狭い道をギリギリで交差する恐怖感にも慣れ、旅の疲れでうとうとしていた所、突然急ブレーキを掛けて車が止まりました。目の前で事故があったようです。慌てて車を降りて見ると、一台のスクーターと共に、年配の男女が倒れています。男の方は気を失っているのか、即死なのかピクリともしません。老女は頭や顔から血を流していますが、やがて起き上り意識はあります。相手の車は逃げてしまったようです。何かをしてあげたい、と思うのですが、言葉も通じず、手をふれることもできません。集まった人々の一人が「警察に無線で通じたから、もう行った方が良い。トラブルに巻き込まれるかも知れないから。」と言っているとの事で、私達は止むなく車に戻りました。しかし、被害者の事が気になって仕方がありません。「この附近には病院らしい建物は一軒もなかった。首都プノンペンを除いてこの国には救急車も殆ど無いそうだ。警察もあまり当てにならないというし、あの二人はどうなるのだろう。せめて持っていたミネラルウォーターを置いてくる位どうしてできなかったのだろう。」重い気分でしばらく誰も口を開こうとはしません。私達の日常のすぐ側に近寄る不吉な死の黒い影を、異国で見てしまったような気分でした。

長く内戦が続いたカンボジアでは、未だに貧困や病気などの沢山の問題を抱えています。一千万発の地雷が埋められたままと言われ、夥しい人が誤ってそれを踏み、手足を失い、生命を落としています。街を歩くと、その被害者と思われる人達が物乞いをしているのです。保健・衛生面での立ち後れは顕著で、1991年のユニセフの統計によると、5才未満児の死亡率は1000人中、188人で(日本人は6人)5人に1人は五才にならないうちに亡くなってしまう状況です。
私は、この国で生命の重さについて考えさせられました。「生命に値段はつけられないが、貧しさの故に、救われない命がある。この国の人々と、私の生命の価値に差は無い筈なのに・・・」「私は日本という安全な社会にいて他の国の現状に目をむけて来なかったのでは無いだろうか。生命の尊厳に目覚めるということは、自己を大切にするように、他の生命を尊重することだ。そう説いていた自分であるが、口先だけの説法であったのでは無いだろうか」
怪我人に対して何の手当を施すこともできなかった自分に一層苛立ちを覚えました。

無常観を感じることは、仏教の基本的な視座です。曹洞宗の御開山であり永平寺を開かれた道元禅師は
「しばらく心を無常にかけて、よのはかなく、人のいのちのあやうきことを、わすれざるべし」(『正法眼蔵』道心)とお示しです。「仏道を求めるには、まず道を求める心を起こす事が大事であり、その為には無常を感じる事が大切である。」と重ねて禅師はお示しになっています。けれども無常を肌で感じている人は少ないようです。私達をとりまく死を凝視め続けることによって、与えられた生を輝かせる生き方を歩んでいきたいものです。
 新潟県のお寺を布教巡回している時にこんな話を伺いました。「あるお寺の住職が病気になって入院した。一人暮らしの為、お檀家の方々が交代で留守番をし、本尊様を守っていた。住職がとうとう危篤に陥ったという知らせが伝わると夕刻から村の人々が続々集まって来て、本堂に灯明を照らし、皆で一晩中お経を読んで回復の奇跡を祈った。」という話。この住職さんがどんな方かは判りませんが、きっと菩薩道に徹した素晴らしい方だったのでしょう。「一人の僧侶としてこういう最後を迎えられたら。」と、素直に感動しました。

カンボジアの国でも、人々共に歩み続ける素晴しい生き方をしている方々に出会う事ができました。その現実は厳しいですが、未来はきっと開けます。たとえ牛のようにノロノロした歩みであっても・・・
 私も何かをせずにはいられない気持ちです。この心を忘れないようにしたいと存じます。全ての生命を大切にみつ凝視め続ける事によって。
1997年