アイヌの伝説によれば、昔この日高の海には鯨の群れが姿を見せていたという。ハマナス・エゾスカシユリ・センダイハギなどの花が色とりどりに咲き乱れ、旅ゆく人々の眼をなぐさめている。
日高の山々は1億年の昔、ジュラ白亜という時代に海の底から浮び上ってきたといわれ、この町の一番高い豊似岳の中腹に神の湖と呼ばれる豊似湖が蒼穹よりも青い水をたたえている。
北海道に人類の足跡がしるされたのは今から、およそ2万年ないし3万年前とされ、このころの日高山脈の峰々は氷河におおわれて植物は今の高山植物、山麓には樅の林やツンドラの荒野が広がり、海水面は今から100メートルほども低く、ユーラシア大陸、樺太、本州は徒歩で渡れるほどの狭さで北海道と陸続きであったといわれている。大陸に棲んでいたナウマン象やマンモス象が食べ物を求めて移動し、人類もまたこれを追い求めて渡り住んだのである。十勝の忠類村のナウマン象、えりも岬のマンモス象の大臼歯の化石がこれを物語っている。今から1万年ほど前になると、それまで猛威をふるっていた寒冷な気候がおとろえ始め氷河がとけだし海水面が高くなって大陸から大きな動物が渡り住むことができなくなって、横行していたマンモス象なども人類に食べつくされて絶滅し、代ってトナカイ、ナキウサギ、キツネ、鳥など小さくて足のはやい動物が多くなったのである。このころから狩猟民族が住みつくようになり、その子孫といわれるアイヌ民族の時代が永く続くのである。
北海道開拓の主役をになった日本民族が北海道に移り住んだのは、658年今から1347年前にことである。自然物の採取のみによって生活をしていたアイヌ民族は、文明の世界との接触からも遠ざけられていたために、日本人との間に大きな差が生じ、当時の幕府が強力に押しすすめた日本人とアイヌ人の同化方針によって、その風習は急激に崩れていったのである。(新北海道史第二巻通説一より)
幌泉に日本人が住みついてから三百余年の歴史をもつといわれ、寛文9年(1669)松前藩士蠣崎蔵人の知行地として商場が開かれ栄えたといわれ、シャクシャインが処刑された年代でもある。松前氏時代にあたる、寛文年間には、和人がはいり、昆布の移出が行われていたという。寛文年間には会所、通行屋、番屋などが設けられ場所請負制度によって、昆布・鮭・鱒を主体とする生産は著しく高まった。
寛政10年(1798)支配勘定近藤重蔵が択捉島から十勝場所広尾まで帰着したところ、広尾から幌泉に至る間、海岸険難の所多く、たまたま風雨にはばまれて滞留すること数日に及び、道路を開削しようと思い立ち自ら費用を投じルベシベツからビタタヌンケに至る山道三里を開削したのである。翌11年、幕府によって様似幌泉間の様似山道、幌泉ビタタヌンケ間の猿留山道などが開削され、これが蝦夷地道路開削のはじめであり、開拓の端緒となって定着する日本人が多くなったということである。
これより日本民族による新しい時代の波が怒濤の如く押し寄せはじめるのである。そして、明治2年蝦夷地が改められて北海道が誕生し、明治5年幌泉は開拓使の直轄地として、開拓の槌音が強くひびきわたるのである。東北地方から200戸が移住するにつれて、各地域に集落が形成され、明治20年頃までには警察署、裁判所、戸長役場、開拓使出張所なと設けられ、各宗寺院も建てられていった。
そして時代を経るに従って、困難な諸条件を克服し、教育・文化・産業・宗教等北海道の先覚として、生産と生活文化に活気とうるおいをそそぎながら、繁栄の歴史を築きあげてきたのである。